東日本大震災から10年 ~あのとき日本に居なかった私~
今日3月11日は、誰もが忘れることのできない東日本大震災が起きた日。
この日が来ると、毎年いろんなことを思い出す。
あの日から10年が経った節目の日に、あの時の思いとか行動したことを思うがままに書いてみようと思った。
10年前の今日 わたしは日本に居なかった
ちょうど10年前、わたしはハタチそこそこで 大学生だった。
この前の年から留学でオーストラリアにいた私は、当時オーストラリアの語学学校に通っていた。
その日私は、学校が半日あり、夕方帰宅してTwitterを見て一旦は嘘だと思った。
でもすぐに現実であることを認識して、すぐに凍り付いたのを今でも覚えている。
震災が起きたのが日本時間で14時過ぎ、オーストラリアでは15時過ぎだった。
ニュースを見たのが現地時間で16時か17時だったと思うから、まだ情報が無さ過ぎた。
日本の情報を得る手段がパソコンだけだったわたしは、Twitterからニュースサイトに切り替えた。
それからすぐに、日本に住んでいる家族に連絡した。
震源とされていた東北地方からは離れて暮らしている家族、大丈夫だとは思ったけど、連絡を取った。
それから、オーストラリアで暮らしている日本人の友達にもすぐに連絡した。
その頃まだオーストラリアでは、ケータイは初期のガラケーみたいなのが当たり前。
スマホを持っている人は少なく、現地では電話で連絡を取ることが多かった。
外にいた友人達は、同じく帰宅して気づいた人も多くいて、友人の中には、家族と連絡が取れない人も多くいた。
とにかくその日は、落ち着かずに過ごしたことを覚えている。
オーストラリアでの反応
その日以降、学校に行けば他の国の友人たちが、家族や友人を心配してくれた。
みんなが家族の安否を聞いてくれて、勇気づけてくれた。
5ヶ月ほどホームステイをしていたホストファミリーが連絡をくれて、遊びにおいでと言ってくれた。
あんなことが母国で起きて、落ち込んでいるだろうということを心配してくれていた。
学校には日本人のコーディネーターが在籍していて、日本人が集められて、話があった。
何か心配事があれば日本語で対応をするから、いつでも相談してほしい旨を伝えられた。
震災があった日から1週間ほどすると、支援の輪が広がっていた。
語学学校の先生たちがチャリティーイベントを企画してくれたのだ。
ホームメイドのお菓子などを持ち寄って、それを販売したお金をチャリティーとして寄付するイベントを開いてくれた。
このイベントが結構大きく、とても嬉しかったことを覚えている。
1週間で行動に移してくれたことや、こんな遠く離れた地でも、なにかできることをと思って行動してくれていたことに感動した。
感謝の気持ちを伝えた。
もどかしさ
日本でも、現地へ行っての支援や、募金、物資支援などが行われていった。
こんな遠い国にいて、なにもできないことに、もどかしさを感じた事をはっきり覚えている。
友人たちの中には、街頭での募金活動や支援物資の収集をしている人たちが多くいて、Facebookやmixi、Twitterで活動について伝えていた。
自分にできることはなにかを考える毎日だったし、落ち込んだ日が続いていたと思う。
この時に1つだけ自分で決めたことがある。
『日本に帰ったら、復興の支援をする。』 心の中でそう決めた。
復興支援
7月に日本へ帰国し、9月から大学に復学した。
田舎から都会に出て大学に通っていた私は、刺激を受ける友人や環境がたくさんあった。
9月に復学した頃には、街頭での募金活動をするという活動自体はそこまで多くなかったような気がする。
秋ごろ、ある友人に誘われたことをきっかけに、わたしは復興支援に関わっていくことになった。
Candle Night
震災のあった年の瀬、12月11日に追悼イベントを開催して、もう一度考える機会を持ってもらうというイベントを開催した。
その当時、まだ行方不明だった人数と同じ個数のキャンドルを並べて、震災についてもう一度振り返るチャリティイベントを開催するというものでした。
被災地に向けたメッセージを書いて貰った紙を、キャンドルの周りに巻いて、火を灯す。
前の日の夜から並べ始めたキャンドルだったけど、当日火を灯す時間になんとか間に合うくらいの個数だった。
当日は、たくさんの人が足を運んでくれたし、たくさんの募金も集まった。
沢山の企業協賛も頂き、特にカメヤマキャンドルには、この時もこの後ものロウソクを物品協賛して貰った。
この時、わたしたちができることは、何でもやろうということで、時間と人手を使ってイベントは成功した。
手作りマフラーを東北へ
震災を経験して初めての冬、友人と友人の母が手作りのマフラーを東北に送るチャリティを立ち上げた。
全国から集めたマフラーを東北の仮設住宅を回って、プレゼントしていくという活動。
英語のできる友人がサイトを立ち上げており、海外からも支援をしてくれた方がいた。
この支援を通して、わたしは初めて東北へ足を運んだ。
被災地へ行って
テレビでは何度も見ていた被災地、震災から1年も経たない被災地は想像していた以上の状態だった。
言葉が出てこないということを、初めて経験したと思う。
仮設住宅を回っている中で、被災者の方々とも話をする機会があり、仮設住宅の中へ招き入れてくれて、当時の話を聞かせてくれた方もいた。
1回目はマフラーの支援で、そしてその後、もう1度被災地へ足を運ぶ機会があった。
陸前高田市の奇跡の一本松も見に行ったし、仮設住宅に住む方に話を聞いたりもした。
その土地がどんな場所だったか、被災当時の状況を聞いたり、現地の小学生と交流をする機会もあった。
この後は、色んな人に被災地のことに興味を持って欲しかったし、知って欲しいと思った。
震災から1年の日に東北にも行ったし、いろんな人に知ってもらうための仕組みづくりもした。
ボランティアをするということ
支援・チャリティといっても、いろんな形があることを知った。
- 募金をする
- 物資を寄付する
- 現地で復興のための人力での作業
- 現地での交流をする
- 被災地以外で、知ってもらう活動をする、忘れない事
私たちは、遠く離れた場所でできる支援をしていきたいと思っていた。
お金を出して募金をすれば、それも間違いなく支援になる。
でも、この日を忘れて欲しくない、これからも東北のことを思う機会を作りたいということで、Candle Nightというイベントを続けていました。
さまざまな事情で今では続けることが難しくなり、途絶えてしまいましたが、後輩たちに引き継ぎほんの1、2年前まで続いていました。
この活動を通して、わたしたちだけでなく、たくさんの人に考える機会を持ってもらいたいと思って活動していました。
この活動・経験を通して
大学生だったという事情もあり、時間がある中で復興支援に携われたこと、東北を訪問できたことは、私の人生に大きな影響を与えたと思います
ボランティアという事に興味を持ったきっかけが、震災の復興支援だったことは間違いないし、身近なものに変わりました。
また機会があれば、いろんな支援をしたいと思うし、いろんな形で人の役に立ちたいと思う精神は今でも変わらずあります。
東北を訪問した数年後に、仮設住宅を訪問した際に知り合った自治会長さんから、お手紙を頂きました。
無事仮設住宅を出て生活をしていることや、震災後の支援についての感謝の言葉が記されていました。
コロナが落ち着いたら、また東北を訪れてみたいと思っています。
東北の現状
東日本大震災の被害は大きく、国で定められている2年間とされていた仮設住宅の提供期限を延長して、今でもプレハブの仮設住宅などで生活している方もいるようです。
予定していた公営住宅の建設は、すべて計画していたものは完成しているとされています。
津波や原発の被害によって、街に戻っていない人も多く、公営住宅の今後の運営も課題の1つとなっているそう。
10年経った今でも、復興が終わっていないということが、あの災害の大きさを物語っているなと感じます。
詳しくはこちらのサイトに記載がありましたので、これまでの10年を振り返ることができます。
今でも支援を続けること
東日本大震災から10年が経ち、もう仮設住宅に住む人もほとんどいなくなり、街も大分復興していると思います。
それでも今も支援をしている場所があること、皆さんにも知ってもらいたいと思うので、いくつか紹介したいと思います。
10年経った今だから思うこと
今でもあの時のことを思い出すこともたくさんあるし、今回記事を書くにあたり、写真や数字を見て、また思い出す機会になりました。
やっぱり10年という月日が、思い出させる頻度を少なくしているのは間違いない。
それでも写真を振り返れば当時の気持ちや、状況が鮮明に思い出すことができます。
あの初めて東北に行った日のこと、一生忘れることはないと思う。
震災を知っている私達がこれからできることとは
わたしは備えること、津波の恐ろしさを後世に伝えること だと思っています。
いつか来ると言われている首都直下地震や南海トラフ地震に備える、起きたときにどう行動するかをしっかり考えて、準備をすること。
あの震災の教訓を生かすことが大切だと思って、我が家でも非常用具の備蓄をしています。
今住んでいる場所の避難場所がどこなのか? 街を歩いてみて、周辺のことをよく知ること。
10年という今日この日に、皆さんにもう一度思い出して貰って、備えることをして貰いたいと思って記事にしました。
願わくば、もう二度とあんな災害が起こって欲しくない、そう願うばかりです。